
そうや当たり前のこと
ただ、ワイらはその当たり前を当たり前と思えんのや
全ては変化するんなんか常識やけど、ワイらは大切な人が4ねば永遠の苦しみのように感じる
現実を現実として見れてないんや
現実をありのままに見れてたら、大切な人や自分が死ぬのも嫌やけどしゃーないで終わる
一生一緒にいたかったのになんで死んだんや、死ぬん嫌やもっと生きたい、なんて思わん
神の名を語る詐欺師が蔓延ってたころやしな
今もか…🙄
有能
神が全てを創ったは無理ありすぎですよ
やけどワイらは変化するものを変化しないものとして捉える
条件によって生じ、変化する身体や心を、独立した不変の私や私のものとして捉える、変化し思い通りにならないものに、確実で永続的な幸福を期待する
そして苦しみが生まれる
ワイらとか言ってる時点で信憑性ないね
観察、検証を重ねて論理を導き出してるから科学的アプローチと言える
そして呼吸や暑さや寒さ空腹や、喜びや悲しみや恐怖や失望といった感情など、自分に起こるあらゆる現象を徹底的に観察し続けた
するとそこに、ある規則性があることに気づいた
例えば怒りを観察し、原因を特定しようと結果から一つ一つ遡っていった
怒りは何から?→嫌悪から、嫌悪は?→不快感から、不快感は?→感覚から、感覚は?→接触から、接触は?→六根(目、耳、鼻、舌、身体、意識)と対象から、、、
すると驚くべきことに、どこまで遡っても独立して存在するものがない
怒りだけではない、喜びも、悲しみも、恐怖も、自分という感覚も全部、「○○があるから△△が起こる」という条件で生まれていた
つまり、原因と条件があるから結果がある、原因も条件がなくなれば結果もなくなる、更にそのもの単体で成立するものは何一つとしてない、全ては原因と条件によって生じ、その原因と条件が変わればそれに応じて変化する
この法則が、この世の真理である縁起であると
苦しみも同じだった
苦しみ→執着がある、執着(掴む心の動き)→渇愛(渇望、掴もうとする心の動き)がある、渇愛→快、不快への反応→反応→感受、、、
という連鎖になっていた
そこでブッダは、渇愛が止まれば苦しみも止まる、見抜いた
更に観察すると、私が怒っていると思っていたものも実際には、見る、聞く、感じる、考える、欲する、という現象が連続しているだけだった
そのどこにも、永遠不変の私は見つからなかった
これが無我
ブッダも最終的にだからなんやねんアホくさってなっとるからセーフや
感覚、思考、感情が瞬間ごとに生じては消え、あらゆる現象が条件によって連鎖していることが、はっきりと観察できる
これを更に観察し続け、例えば何があると怒りが生じ、何が加わると怒りが強まり、何がなければ怒りが続かないのか?を何通りも積み重ね検証する
不快な感覚が生じても、そこに反発や執着を重ねなければ、必ずしも同じ苦しみの連鎖には進まない、と理解する
すると怒りを抱くことは苦しみを生む結果に繋がり、自分の怒りを条件として相手の憎悪を生み、苦しみの条件連鎖が起きることになる、と見極められる
よって、怒りへの条件連鎖が絶たれることに繋がる
怒りを抱いても何一つ利点がないどころか害でしかない、ならば怒る必要がないと怒りへと進む道が閉ざされる
原因や条件によって生じてる、そしてその原因や条件にも同じように原因や条件がある、そしてその、、、永遠に遡っていけるから無限遡及、無終無終や
そして無始は原因がないという意味ではない
無始とは、何の原因もなく突然存在が始まったという意味ではない、むしろ逆
条件による生起をどこまでも遡っても、絶対的な第一地点を見出せない、という意味
よって無始 ≠ 無原因となる
条件の連鎖に絶対的な第一地点を設定しない、ということや
苦しみからの解放や
釈迦は結局その後死んでるけどそれは苦しみに入らんの?
どうしようもない現実からは逃れられんからそれらを自分の思い通りに固定しようとして掴まん、掴もうとせんのや
ブッダは次の存在が生起する条件となる渇愛、執着を完全に断ったからもう再生はされん
正座虐待死したあの子も仏教的にはカルマの結果の自己責任や


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