釈迦が最初に抱いた疑問は、「人はなぜ苦しむのか」だった
当時は、神が決める、運命、宿命、偶然、など様々な説があったが、釈迦は納得しなかった
彼は、「苦しみには必ず原因があるはずだ」と考えた
ここが出発点
上級生活を捨て出家し6年間の苦行を経て、肉体を痛めつけてもなんの価値もなく智慧は得られないと悟る
そこで呼吸や身体感覚、心を静かに観察する
すると最初に見えたのは、心は勝手に動いている、という事実だった
例えば
音が聞こえる
↓
「あ、嫌な音だ」
↓
イライラ
↓
怒り
↓
苦しみ
これらは一瞬で起きる
とにかく無心でチンポを出す
更に観察すると、怒りは突然生まれていなかった
例えば
相手に悪口を言われる
↓
耳が音を聞く
↓
意味を理解する
↓
嫌だと感じる
↓
怒る
↓
苦しむ
つまり、怒りには前段階がある
更に、嫌だという感情にも前段階があった
悟ったのならそれを広めようとする我執すら失うはずなんだけど?
縁起な
ここから釈迦は、「これは何から起こる?」を何度も繰り返し、原因を特定しようとする
怒りは何から?
↓
嫌悪から
嫌悪は?
↓
不快感から
不快感は?
↓
感覚から
感覚は?
↓
接触から
接触は?
↓
六根(目、耳、鼻、舌、身体、意識)と対象から
……
というように、原因を一つ一つ逆に辿って行った
すると驚くべきことに、どこまで遡っても独立して存在するものがない
怒りだけではない、喜びも、悲しみも、恐怖も、自分という感覚も全部、「○○があるから△△が起こる」という条件で生まれていた
つまり、原因があるから結果がある、原因がなくなれば結果もなくなる、この法則が「縁起」である
苦しみも同じだった
苦しみ
↓
執着がある
執着
↓
渇愛(喉が渇いた者が必死で水を求めるような、執着的欲求)がある
渇愛
↓
快・不快への反応
反応
↓
感受
…
という連鎖になっていた
そこで釈迦は「渇愛が止まれば苦しみも止まる」と気づいた
更に観察すると、「私が怒っている」と思っていたものも、実際には、見る、聞く、感じる、考える、欲するという現象が連続しているだけだった
そのどこにも、永遠不変の「私」は見つからなかった
これが「無我」の発見
釈迦は、自分の心を徹底的に観察して「苦しみも喜びも、あらゆる心の働きは条件によって生じ、条件が消えれば消える」という事実を発見し、その普遍的な法則を「縁起」と悟った
縁起を観察し続けると、釈迦は、感覚、感情、思考、意志、意識、これらは全て条件によって生じ、条件が変われば消えていくことを見た
そこで、「では、この中のどれが永遠の『私』なのか?」と観察した
しかし、どれも変化し続けている
つまり、不変の魂(アートマン)は見つからない
これが無我
一方で、縁起を見れば見るほど、「原因が結果を生む」という法則だけは崩れない
例えば、怒りは怒りだけで突然現れない
必ず、接触 → 感受 → 渇愛 → 執着 → 苦、という流れがある
つまり、結果は原因なしには生まれない
更に釈迦は、行動だけではなく、「意志を伴う行為(業・カルマ)」そのものが、後の心の状態に影響することを観察した
例えば、怒り続ける人は、怒りやすくなる、慈悲を育てる人は、慈悲深くなる
つまり、心は自分の行為によって形づくられていく
ここで大きな疑問が生まれる、「身体が死んだら、この因果関係は突然ゼロになるのか?」
もし死によって全ての因果が消えるなら、縁起という普遍法則に「死だけは例外」ということになる
しかし釈迦は、縁起は例外のない法則だと理解していた
つまり、死そのものが因果関係を断ち切る特別な出来事ではないと考えた
ただし、「魂が移動する」とは考えなかった
むしろ、条件が次の条件を生むという見方
有名な例えでは、
一つのろうそくの火が別のろうそくに移るように見えても、同じ火が移動したわけではない
あるいは、種から芽が出ても、種そのものが芽になったわけではない
連続性はある、しかし同一性はない、これが釈迦の考え方
この理解を人生全体に当てはめると、
無明
↓
行(業を生む意志)
↓
識(意識)
↓
名色(心身)
↓
……
↓
生
↓
老死
という流れになる
そして、老死で終わりではなく、無明と渇愛が残っている限り、再び条件が整って「生」が起こる
これが輪廻
逆に、
無明がなくなる
↓
渇愛がなくなる
↓
執着がなくなる
↓
業を新たに積まなくなる
↓
新たな「生」の条件がなくなる
これが涅槃(ニルヴァーナ)
つまり、輪廻は誰かが止めるものではなく、原因がなくなれば結果もなくなるという縁起そのもの
そして涅槃とは、存在しているわけでもなく、存在していないわけでもない、火は消えた時どこに行ったのか?消滅したのか?
釈迦は「魂」は見つからないが、「原因は必ず結果を生む」という縁起の法則は例外なく成り立つと見て、無明や渇愛、業が残る限り、その因果の連鎖が新たな生を条件づけると考え、輪廻を説いた
この因果の連続性こそが輪廻である
この法則からはあらゆる生命、神すらも逃れられない
現代風に表現すると、この全宇宙の根幹システムによる自動処理、そこには意思も意図も目的もない、無機質な流れ
人間に生まれることは、盲目の亀が100年に一度だけ海面に浮かび上がり、広い海を漂う穴の開いた一本の木(浮木)の穴に、偶然首を入れるほど難しい
行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
世界→解釈→感情→私
が、
世界→世界
になること
自我すらも手放し、物事が「そのまま」現れては消え、良い・悪い、得・損、好き・嫌い、これらが一切付着しない
音は音、痛みは痛み、喜びは喜び
そこに、だから私は不幸だ/幸福だ、が乗らない
所有者がいない
現象が動くだけで、観照者は巻き込まれない
苦しみは痛みではなく状況でもなく「これは私に起きている」という掴みから生まれる
悟った者にも痛みはある、悲しみは起こる、老いも病も来る、でも、抵抗が起きない、だから二次苦が生まれない
悟った者は未来を掴まない、過去に戻らない「今に留まる」のではなく「今しか現れていない」
時間は流れではなく、記憶の構成物として見抜かれている
起きているが、掴まれていない
現れているが、縛られていない
生きているが、所有していない
悟った者が見ているのは、特別な世界でもなく、別次元でもなく、神秘的ビジョンでもなく、今見ているこの世界
そこに「私」が介入していない
1宿命論(運命論)
「全ては最初から決まっている」
「努力しても何も変わらない」
2偶然論
「全ては偶然で、原因などない」
3神意論
「神や創造主がすべてを決めている」
釈迦はこれらをいずれも採らなかった
代わりに説いたのが縁起
つまり、「物事には必ず原因と条件があり、その条件が変われば結果も変わる」という立場です
例えば、今苦しんでいる人でも、考え方を変える、行動を変える、執着を手放す、ことで未来は変えられる、と説いた

コメント